2009年11月10日火曜日

江ノ島、ジャイアンツ、野球盤

11月8日(日)は、午前中にまた自転車で江ノ島へ行く。



午後は家族と横浜駅周辺へ買い物へ。

息子が期待していたジャイアンツの優勝記念セールは、どこにも見あたらない。もう、そういうのは流行らないんだと改めて実感する。

ジャイアンツの帽子をかぶり、野球の話を嬉しそうに語り、エポック社の野球盤をほしがるような子供は、息子以外にいないようだ。ジャイアンツの優勝がとても大きな事件である彼が、ちょっと不憫に思えた。

2009年11月3日火曜日

久しぶりに富士山を見た

自転車で江ノ島に行ったら、木枯らしに吹かれた空の向こうに富士山がきれいに見えた。富士山をきちんと見たのは、何年ぶりだろうと思う。小学生の頃は毎日見ていたのだが。



思えば、小学校、中学校、高校とすべての校歌で富士山が歌われていた。建て替える前の実家では、子供部屋の明かり取りの窓からも富士山が見えた気がするが、建物に隠れて見えたはずはないようにも思える。記憶がどんどん曖昧になってきている。

父親が介護施設に入る日

10月25日(日)は、妻と息子を連れて実家へ顔を出した。翌日26日(月)から父親が入所する介護施設の申込に保証人が必要とのことで、珍しく兄に電話で呼び出されていた。

大体月に1回は実家へ顔を出すようにしている。父親が91歳、母親が86歳。典型的な老老介護だ。兄が同居しているが、仕事へ出ている間、母親への負担が大きくなりすぎるため、父親は介護施設に入ることになったようだ。母親はここ1、2年、補聴器を付けても会話が聞き取れないことがある。同じ話を何度も繰り返すことも多くなった。

実家に上がると、大きな鞄3つに、いっぱいに荷物が詰まっていた。運び出しやすいよう、和室の窓際に揃えてある。そそくさと入所書類に記入して捺印し、取り留めもない世間話をする。

「体が動かないような人とかね、重病人が入るような施設じゃあないんだよ。体が動くようになったらね、帰ってくるから。下見に行ったんだけどね、新築でぴかぴかなんだ。」

父親は1年ほど前から歩くのが不自由になり、歩行器を使うようになっている。どれくらいの期間、入所する予定かを尋ねたら、とりあえず3ヶ月だという。
「正月はどうするの?」 不用意に聞いてしまった。
「希望すれば一時帰宅とか、できるし。」 曖昧に兄が引き取った。

夕方、テレビで「笑点」を見、出前の鮨を囲んだ。子供の頃にも何度となく「笑点」を見、出前の鮨を食べたはずだが、とてもとても遠い。

帰りがけ、息子にさよならを言わせる。息子も父親も、何度も手を振った。父親はいつものように笑っていた。受け入れている、ということが何となく伝わってくる。父親との距離は遠いのだとわかってきた。父親のことなんて、知らないことばかりだ。

不意に、胃の上の部分と眼の奥が痛くなる。これは、泣いている息子を保育園に置いてきた最初の日と似ていると思った。これは人倫の問題にはならないのか。今日、父親は笑っていたが、制度や社会を都合よく利用できるのをいいことに、私は何かを放棄し、何かから逃避しているのではないのか。

そして唐突に、自分の子供を一所懸命に育てようと思う。来年2月には二人目が生まれる。私も何か、受け入れることができるような気がしてきた。