2013年4月24日水曜日
父の臨終
2012年11月3日(土)、転院先の病院へ父を見舞う。303号室という相部屋にいた父は、前と比べて驚くほど小さく、弱々しくなっていた。鼻から酸素チューブを通している。自分の名を告げて声をかけたら、見た目に比べれば元気な声で「ああ、ありがとう」と返してきたが会話は続かない。意味不明なうわごとのような声が、たまに漏れた。こまめに見舞いに来なかったことを後悔した。体の衰えは、季節みたいに着実に進行している。意識があるのかないのか分からないが、口の周りのひげとベッドの手摺りの間に手を往復させている。父は、こまめにシェーバーでひげを剃るのが習慣で、こんな状態でも髭が気になるのだろう。父の右手を握ってみた。少し冷たい。誰かが手を握っているのは、分かってくれているように思えた。病院の職員が2名入ってきて、機械的に体位を交換していく。設備も病室もきれいな病院だが、看護されている感じがしない。
2012年11月10日(土)、310号室というナースステーション近くの個室へ病室が移る。最期の時が近づいているとのことだ。胃瘻からの栄養が吸収されなくなってきている。血圧は95くらい。目には少し涙が溜まっていた。声をかけるが反応は分からない。手を握る。医師も看護師もほとんど姿を見せない。ここは死んでいくまでの時間を過ごすための場所だということがよく分かる。
2012年11月11日(日)、早朝4時50分に兄から電話があった。病院から呼び出しがあったとのこと。5時40分の相鉄線で病室へ向かった。酸素マスクをして静かに眠っている。脈拍や血圧、血中酸素量などをモニターする機械がつながっている。積極的な延命治療を不要としたことに、幾ばくかの罪悪感を感じた。このまま父が、死の側に回収されていくのをじっと待っていることしかできない。看取る者は何をすべきで、何をしないべきなのだろう。死の間際には何を感じるのだろう。いい歳をして、知らないことばかりだ。父の尿が出なくなってきた。枕元からずっと父の顔を見ている。見慣れていたはずなのに、どこか疎遠な感じがする。血圧が51まで下がる。14時10分頃、半ば突然に体が小刻みに動いて、小さな吐息のような声が漏れた。「お父さん」と聞こえるように耳元に声をかける。瞬きをしないようにじっと父の横顔を見続けた。数秒して、父の体は静かになっていった。医師を呼んだ。医師は安物のデジタル式腕時計を見て、14時18分だったことを告げた。