2013年4月24日水曜日
父の臨終
2012年11月3日(土)、転院先の病院へ父を見舞う。303号室という相部屋にいた父は、前と比べて驚くほど小さく、弱々しくなっていた。鼻から酸素チューブを通している。自分の名を告げて声をかけたら、見た目に比べれば元気な声で「ああ、ありがとう」と返してきたが会話は続かない。意味不明なうわごとのような声が、たまに漏れた。こまめに見舞いに来なかったことを後悔した。体の衰えは、季節みたいに着実に進行している。意識があるのかないのか分からないが、口の周りのひげとベッドの手摺りの間に手を往復させている。父は、こまめにシェーバーでひげを剃るのが習慣で、こんな状態でも髭が気になるのだろう。父の右手を握ってみた。少し冷たい。誰かが手を握っているのは、分かってくれているように思えた。病院の職員が2名入ってきて、機械的に体位を交換していく。設備も病室もきれいな病院だが、看護されている感じがしない。
2012年11月10日(土)、310号室というナースステーション近くの個室へ病室が移る。最期の時が近づいているとのことだ。胃瘻からの栄養が吸収されなくなってきている。血圧は95くらい。目には少し涙が溜まっていた。声をかけるが反応は分からない。手を握る。医師も看護師もほとんど姿を見せない。ここは死んでいくまでの時間を過ごすための場所だということがよく分かる。
2012年11月11日(日)、早朝4時50分に兄から電話があった。病院から呼び出しがあったとのこと。5時40分の相鉄線で病室へ向かった。酸素マスクをして静かに眠っている。脈拍や血圧、血中酸素量などをモニターする機械がつながっている。積極的な延命治療を不要としたことに、幾ばくかの罪悪感を感じた。このまま父が、死の側に回収されていくのをじっと待っていることしかできない。看取る者は何をすべきで、何をしないべきなのだろう。死の間際には何を感じるのだろう。いい歳をして、知らないことばかりだ。父の尿が出なくなってきた。枕元からずっと父の顔を見ている。見慣れていたはずなのに、どこか疎遠な感じがする。血圧が51まで下がる。14時10分頃、半ば突然に体が小刻みに動いて、小さな吐息のような声が漏れた。「お父さん」と聞こえるように耳元に声をかける。瞬きをしないようにじっと父の横顔を見続けた。数秒して、父の体は静かになっていった。医師を呼んだ。医師は安物のデジタル式腕時計を見て、14時18分だったことを告げた。
2011年11月8日火曜日
父親の入院
介護施設にいる父親が入院したという連絡が、福岡への出張中に妻からあった。
深夜1時30分を過ぎているというのに、ホテルの部屋で突然目が冴えてしまう。突然、悔恨の念で体中がいっぱいなことに気がつく。お父さん、俺はあなたのことを何も知らない。48年間も一緒に生きてきたのに、あなたのことを何一つ理解していない。ホテルの部屋で、突然閉所恐怖に襲われる。今すぐ病院へ行ってあなたと話をしなければならない。あなたの半生を、大切に思っていることを、今すぐすべて聞き出さなければならない。外着に着替え直し、部屋の窓を開けて、少し落ち着きを取り戻した。
一昨日の11月6日の日曜日、介護施設を久しぶりに訪れたとき、あなたはほんとうに小さくなっていた。痰がからんで、呼吸の音はぜいぜいと不吉だった。あなたは自分の墓の墓石の見積もりが遅れていることばかり気にしていた。俺はほとんど涙がこぼれそうだった。38.5度あった熱は37.0度まで下がってきている。血中の酸素量も正常範囲内に近づいてきている。それでも、命が弱まってきていると感じられた。
ベッドの上で上体を引き上げるとき、それでもあなたの体は重かった。なかなか動かなかった。あなたの体に触れたのは、何年ぶりだったことだろう。あなたはパジャマや寝間着を着ない。茶色いフランネルのいつものシャツを着、左腕には金の腕時計をはめ、そしてシェーバーでひげを剃った。一人ではベッドから降りられないというのに、身だしなみを整えることに何の疑問もないという風情だった。俺は、あなたのひげを剃ってあげたかった。あなたの手はもう、シェーバーを頬に正しくあてることができなくなってきていた。どうしてシャツを着ているのか聞きたかった。どうして腕時計をはずさないのか話してほしかった。どうしてひげを剃りたいのか理解したかった。
とぎれとぎれの会話を30分ほどした。最後に、今日はどうもありがとう、とあなたは言った。何故だか俺は椅子から立ち上がってしまった。あなたは立派だよ。あなたはきちんと受け入れている。48歳にもなるのに、俺はまだまだ全然だめなままだ。
深夜1時30分を過ぎているというのに、ホテルの部屋で突然目が冴えてしまう。突然、悔恨の念で体中がいっぱいなことに気がつく。お父さん、俺はあなたのことを何も知らない。48年間も一緒に生きてきたのに、あなたのことを何一つ理解していない。ホテルの部屋で、突然閉所恐怖に襲われる。今すぐ病院へ行ってあなたと話をしなければならない。あなたの半生を、大切に思っていることを、今すぐすべて聞き出さなければならない。外着に着替え直し、部屋の窓を開けて、少し落ち着きを取り戻した。
一昨日の11月6日の日曜日、介護施設を久しぶりに訪れたとき、あなたはほんとうに小さくなっていた。痰がからんで、呼吸の音はぜいぜいと不吉だった。あなたは自分の墓の墓石の見積もりが遅れていることばかり気にしていた。俺はほとんど涙がこぼれそうだった。38.5度あった熱は37.0度まで下がってきている。血中の酸素量も正常範囲内に近づいてきている。それでも、命が弱まってきていると感じられた。
ベッドの上で上体を引き上げるとき、それでもあなたの体は重かった。なかなか動かなかった。あなたの体に触れたのは、何年ぶりだったことだろう。あなたはパジャマや寝間着を着ない。茶色いフランネルのいつものシャツを着、左腕には金の腕時計をはめ、そしてシェーバーでひげを剃った。一人ではベッドから降りられないというのに、身だしなみを整えることに何の疑問もないという風情だった。俺は、あなたのひげを剃ってあげたかった。あなたの手はもう、シェーバーを頬に正しくあてることができなくなってきていた。どうしてシャツを着ているのか聞きたかった。どうして腕時計をはずさないのか話してほしかった。どうしてひげを剃りたいのか理解したかった。
とぎれとぎれの会話を30分ほどした。最後に、今日はどうもありがとう、とあなたは言った。何故だか俺は椅子から立ち上がってしまった。あなたは立派だよ。あなたはきちんと受け入れている。48歳にもなるのに、俺はまだまだ全然だめなままだ。
2011年4月11日月曜日
地震のこと
2011年3月11日(金)の地震のことは記憶していた方がよいと思ったので、まだ覚えていることを書き留めておく。
11日(金)に地震が起こったときは、会社で仕事をしていた。契約書の雛形に載せる条項を会議室で同僚と2人で校正していたときに、揺れが来た。冷静だったが、何がどうなるのか、何をするべきで何をする必要がないのか、ちっとも分からなかった。リーダーシップが重要だなどと職場では日頃から言っているのに、自分のことしか考えが及ばない。少し離れた場所で働いているスタッフが本社に戻ってもよいか許可を求めてきたときにも、定時まで通常業務を続けさせるべきかどうか悩んだりした。臨時の帰宅便として会社の巡回バスが自宅方面へ出発すると聞いて乗車したが、渋滞で全く進まず会社に戻ることにする。結局、会社で一泊することにした。ホームページで情報収集しながら、会社のデスクの横で睡眠を取る。原子力発電所の事故が気にかかった。
12日(土)の午前中、電車が全く動かないので、同僚が運転する会社の車に分乗して帰宅。天気は晴れ、首都高速は空いており、何事もなかったのではないかという気分になる。
13日(日)は自宅周辺で過ごす。テレビをほとんど見ない所為もあってか、この地震の影響は限定的だし、自分の生活にはほとんど影響しないと感じていた。停電や商品の欠品が起こるとは全く想像できなかった。
14日(月)の朝、通勤電車の運行休止を知る。自分の迂闊さ加減がようやく分かってきた。妻の勧めで、自転車で会社まで行くことにする。以前にも自転車通勤をしたことがあるので、迷う心配はない。服と鞄と装備を整え、27kmほどの距離に1時間30分かかった。会社に到着したとき、何人かのスタッフが出社を喜んでくれた。頼りにされたことを嬉しく感じる。休憩時間中に、大惨事の中でも秩序立った行動をしていた人たちに関するブログを読んだ。自分にも、最低限のことはできそうな気がしてくる。
17日(木)は前から予定していた休暇を取り、実家で一人暮らしをしている母親の様子を見に行った。途中から電車が運休になっていたのでタクシーに乗る。この付近が計画停電の対象区域であることを、タクシーのドライバーに教えてもった。幸い、母親は元気だった。昼食の食材がないので、信号の消えた道を食料品店を探して歩く。コンビニエンスストアが1軒営業していた。照明が完全に消え、レジも動かない。レトルトのカレーと菓子類を買うと、会計は充電式のハンディターミナルで行われた。外の駐車場では、近所の工事にやってきた職人さんと思しき人達が、品切れの弁当類の代わりにカロリーメイトやスナック菓子類を昼食に食べている。円高が急激に進んだので、会社に電話して米ドルの為替予約をする。庭の倒れた石灯籠を直し、部屋の本棚を整理して、電車の運行時間に合わせて早々に帰宅した。
この地震で再認識したことがある。
【1】自分が生きている地面や社会基盤やシステムは、実は脆弱であること(少なくとも脆弱な部分があること)。
【2】自分の生活は、実に様々な人や物、社会システムに依存していること。身の回りにある何一つ自分で作り出すことはできないし、社会システムの中で自分が果たせる役割は極小であること。
【3】原子力発電や電気の利用に関する知識を深め、評価に必要な軸や要因は何かをはっきりさせる必要があること。
転換点を記録しておきたかっただけだ。結論を求めているわけではない。
11日(金)に地震が起こったときは、会社で仕事をしていた。契約書の雛形に載せる条項を会議室で同僚と2人で校正していたときに、揺れが来た。冷静だったが、何がどうなるのか、何をするべきで何をする必要がないのか、ちっとも分からなかった。リーダーシップが重要だなどと職場では日頃から言っているのに、自分のことしか考えが及ばない。少し離れた場所で働いているスタッフが本社に戻ってもよいか許可を求めてきたときにも、定時まで通常業務を続けさせるべきかどうか悩んだりした。臨時の帰宅便として会社の巡回バスが自宅方面へ出発すると聞いて乗車したが、渋滞で全く進まず会社に戻ることにする。結局、会社で一泊することにした。ホームページで情報収集しながら、会社のデスクの横で睡眠を取る。原子力発電所の事故が気にかかった。
12日(土)の午前中、電車が全く動かないので、同僚が運転する会社の車に分乗して帰宅。天気は晴れ、首都高速は空いており、何事もなかったのではないかという気分になる。
13日(日)は自宅周辺で過ごす。テレビをほとんど見ない所為もあってか、この地震の影響は限定的だし、自分の生活にはほとんど影響しないと感じていた。停電や商品の欠品が起こるとは全く想像できなかった。
14日(月)の朝、通勤電車の運行休止を知る。自分の迂闊さ加減がようやく分かってきた。妻の勧めで、自転車で会社まで行くことにする。以前にも自転車通勤をしたことがあるので、迷う心配はない。服と鞄と装備を整え、27kmほどの距離に1時間30分かかった。会社に到着したとき、何人かのスタッフが出社を喜んでくれた。頼りにされたことを嬉しく感じる。休憩時間中に、大惨事の中でも秩序立った行動をしていた人たちに関するブログを読んだ。自分にも、最低限のことはできそうな気がしてくる。
17日(木)は前から予定していた休暇を取り、実家で一人暮らしをしている母親の様子を見に行った。途中から電車が運休になっていたのでタクシーに乗る。この付近が計画停電の対象区域であることを、タクシーのドライバーに教えてもった。幸い、母親は元気だった。昼食の食材がないので、信号の消えた道を食料品店を探して歩く。コンビニエンスストアが1軒営業していた。照明が完全に消え、レジも動かない。レトルトのカレーと菓子類を買うと、会計は充電式のハンディターミナルで行われた。外の駐車場では、近所の工事にやってきた職人さんと思しき人達が、品切れの弁当類の代わりにカロリーメイトやスナック菓子類を昼食に食べている。円高が急激に進んだので、会社に電話して米ドルの為替予約をする。庭の倒れた石灯籠を直し、部屋の本棚を整理して、電車の運行時間に合わせて早々に帰宅した。
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この地震で再認識したことがある。
【1】自分が生きている地面や社会基盤やシステムは、実は脆弱であること(少なくとも脆弱な部分があること)。
【2】自分の生活は、実に様々な人や物、社会システムに依存していること。身の回りにある何一つ自分で作り出すことはできないし、社会システムの中で自分が果たせる役割は極小であること。
【3】原子力発電や電気の利用に関する知識を深め、評価に必要な軸や要因は何かをはっきりさせる必要があること。
転換点を記録しておきたかっただけだ。結論を求めているわけではない。
2011年1月21日金曜日
対・上司作戦〈べからず〉と〈べし〉
「ハーバード・ビジネス式 マネジメント - 最初の90日で成果を出す技術
」という本に、「新しい上司と健全な関係を築くコツ」が書いてあった。上司との関係、部下との関係に悩むことが多く、結構使えると思ったのでメモしておく。
対・上司作戦〈べし〉
説教くさい押しつけにならないように、こうした事項を若手へ伝えることができればよいのだけれど。
対・上司作戦〈べからず〉
- これまでの悪口を言うべからず。
- 殻に閉じこもるべからず。 ― あなたの方から近付いていこう。自分は仕事ができるから大丈夫などと思っていてはいけない。
- 不快な不意打ちを与えるべからず。 ― 上司が重大視するのは、むしろ問題が起きたときにすぐに報告しないことなのだ。重大な問題が他のルートから上司の耳に入るのは最悪である。
- 問題だけを上司に押しつけるべからず。 ― 解決策も用意していくこと。何が問題でどんな助けが必要か、数分程度でわかるように整理しておくこと。
- 不要なことまで逐一報告するべからず。 ― 「何をしたいか、どうしてほしいか、それだけを言いに来たまえ」
- 上司を変えようと思うべからず。 ― 上司の癖や習慣には、あなたが合わせてあげよう。
対・上司作戦〈べし〉
- 上司とうまくやるのは100%部下の仕事と心得るべし。― 上司の方からあなたに手を差しのべ必要な助けを与えてくれるなどと期待してはいけない。
- 早い時期にお互いの期待をはっきりさせるべし。― 悪いニュースは包み隠さず報告して、過剰な期待を抱かせないように。その後も定期的に話し合い、上司の期待が膨れあがらないよう牽制しよう。
- 期限を交渉すべし。― 新しい職場の問題を診断し、どんな手を打つか考える猶予期間をもらわなければならない。
- 緒戦の勝利は、上司が重視する分野で目指すべし。
- 上司が信頼する人に好感を持ってもらうべし。
説教くさい押しつけにならないように、こうした事項を若手へ伝えることができればよいのだけれど。
2010年3月9日火曜日
管理職がすべきこと。リーダーの仕事のマニュアル。
会社で管理職になって以来、管理職あるいはリーダーの仕事のマニュアルがないかと、ずっと感じてきた。小さな会社しか経験してこなかったからか、模範と思える管理職に出会ったり指導してもらったりした記憶がない。あるとき突然、自分にも肩書きが付くようになり組織図の自分の位置が上にずれる。何ができればリーダーになれるのか、リーダーは何に集中して何を上達すべきなのか、係長と課長と部長に本質的な違いはあるのか、誰からも教わらないまま管理職になって今日まできてしまっている。
〈脱「でぶスモーカー」の仕事術
〉の作者デービッド・マイスター(メイスター)のつながりで、彼の共著である〈初めてリーダーとなる人のコーチング
〉を読んだ。この本にせめて15年前に出会っていたら、と思った。この本の対象読者は、「はじめに」に以下のように書かれている。
自分の経験では、管理職の仕事をよくこなすためには、担当の職務機能が限定されていたとしても、多くの専門的な領域をカバーする必要があった。個々の専門分野では部下になる人の方が詳しいし、自分の昇進が順調であれば部下が年長であることはざらなので、ボスとして振る舞える機会などない。それに、ボスとして振る舞えるとしても、コーチとして振る舞った方がチームの力を引き出しやすいことはすぐに分かる。また、人材育成が追いついておらず、管理職としての時間配分の切り替えが不十分なので、自分もプレーヤーの立場を引きずってしまう。よい管理職になる方策が分からない私は、この本の対象読者の条件を満たしていた。階層が上がってもこうした状況は余り変わらないので、管理職に成り立ての頃はもちろん、若干上級の職位の人になった今も役立つと感じている。
この本が、初めてリーダーになる人の大きな助けになると思われる点は、数多くのチェックリストに具体的な課題項目や行動内容が列挙されていることだ。自分のグループがうまく機能しているかどうかを検討するためのリスト(13リスト)、最初にグループを作るときに明確にすべき項目のリスト(18リスト)、リーダーの行動に関するリスト(7リスト)、メンバー一人ひとりとのつきあい方に関するリスト(23リスト)、グループを管理するためのリスト(27リスト)。例えば、リーダーは何に時間を使うべきかのリストとか、自信家に対応するための手順とか、メンバーの問題のある行動への対応とか、大事なメンバーが死亡したら、というのまである。
こうした基本的な課題の一つひとつに私も躓いてきたし、今も悩んでいる。何をすべきなのか、何をすべきでないのか、どの程度まで行動すべきなのか、行動の基準や規範は何に求めるべきなのか。この本の箇条書きのチャートは具体的でわかりやすく、課題に直面したときマニュアルとして利用することができると思われた。こういうことが体系的にまとまっていて、いつでも参照できるという事実は、大きな助けになる。
作者のデービッド・マイスター(メイスター)は、2009年末で引退してしまったそうだ
(http://davidmaister.com/blog/604/Farewell-and-Thanks)。これ以上の著作が期待できないことが、残念だ。
〈脱「でぶスモーカー」の仕事術
(前略) 対象となる読者は、企業全体を管理する立場の人ではなく、その一部の調整、管理、指揮、運営などにあたる人である。グループのメンバーにとって「ボス」ではなく、たとえ立場上は上司でも、ボスらしくふるまおうとはしない。命令指揮する権限はほとんどなく、あったとしてもめったに行使しない。リーダーとしていい仕事をするには、対等な仲間の中で先頭に立つことが大事である。
企業全体ではなくグループを管理する立場なので、一方で自分もメンバーと同じ業務を続けなければならない。プレーヤー兼コーチである。管理やそれに類する仕事は初めてという人もいるだろう。(後略)
自分の経験では、管理職の仕事をよくこなすためには、担当の職務機能が限定されていたとしても、多くの専門的な領域をカバーする必要があった。個々の専門分野では部下になる人の方が詳しいし、自分の昇進が順調であれば部下が年長であることはざらなので、ボスとして振る舞える機会などない。それに、ボスとして振る舞えるとしても、コーチとして振る舞った方がチームの力を引き出しやすいことはすぐに分かる。また、人材育成が追いついておらず、管理職としての時間配分の切り替えが不十分なので、自分もプレーヤーの立場を引きずってしまう。よい管理職になる方策が分からない私は、この本の対象読者の条件を満たしていた。階層が上がってもこうした状況は余り変わらないので、管理職に成り立ての頃はもちろん、若干上級の職位の人になった今も役立つと感じている。
この本が、初めてリーダーになる人の大きな助けになると思われる点は、数多くのチェックリストに具体的な課題項目や行動内容が列挙されていることだ。自分のグループがうまく機能しているかどうかを検討するためのリスト(13リスト)、最初にグループを作るときに明確にすべき項目のリスト(18リスト)、リーダーの行動に関するリスト(7リスト)、メンバー一人ひとりとのつきあい方に関するリスト(23リスト)、グループを管理するためのリスト(27リスト)。例えば、リーダーは何に時間を使うべきかのリストとか、自信家に対応するための手順とか、メンバーの問題のある行動への対応とか、大事なメンバーが死亡したら、というのまである。
こうした基本的な課題の一つひとつに私も躓いてきたし、今も悩んでいる。何をすべきなのか、何をすべきでないのか、どの程度まで行動すべきなのか、行動の基準や規範は何に求めるべきなのか。この本の箇条書きのチャートは具体的でわかりやすく、課題に直面したときマニュアルとして利用することができると思われた。こういうことが体系的にまとまっていて、いつでも参照できるという事実は、大きな助けになる。
作者のデービッド・マイスター(メイスター)は、2009年末で引退してしまったそうだ
(http://davidmaister.com/blog/604/Farewell-and-Thanks)。これ以上の著作が期待できないことが、残念だ。
2010年3月3日水曜日
長女が生まれた
2月8日(月)に長女が生まれた。この日の出来事を記録しておきたいと思う。
2月7日(日)の晩に寝入ってしばらくした後、翌8日(月)午前1:30頃に妻に起こされた。周期はまだ長いが、本格的な陣痛が始まったようだとのこと。彼女はかかりつけの産科に電話をし、とりあえず診察を受けることになる。ばたばたと身支度を調えて、タクシーをつかまえ産科へ向かった。この日がちょうど予定日となっていた妻はそのまま入院することになった。陣痛が強くならないので、3時過ぎ頃、私は一度家に戻ることにする。寝ている長男を家に置いてきているためだ。
4:28に陣痛が強まってきたとのメールが妻から届く。熟睡している長男を起こして支度をさせ、再度タクシーで2人で産科へ向かった。家族が増える瞬間に長男を立ち会わせると、妻と予め決めておいたためだ。可能であれば私と長男は分娩室に入ってその瞬間を共有してほしいと、妻は希望していたのだ。妻の陣痛はまだ十分に強くならず、長時間かかるかもしれないと看護師に言われる。このため7時過ぎ、電車で再度家に帰る。途中、長男の小学校に電話をかけ、今日は休ませる旨を担任の先生に連絡した。
9:12に妻からメールが届いた。陣痛がかなりきつくなってきているらしい。長男を連れて電車で産科へ。ベッドの上の妻はかなり苦しいようで、背中から腰を何度もさすってやる。10時過ぎ、長男をトイレに連れて行って病室へ戻ると、妻は分娩室へ移されていた。
分娩室に入るため専用の薄い上着と帽子を身に付ける。長男は分娩室には入りたがらない。分娩室では二人の看護師と共に妻が格闘中だった。私は妻の頭側に立って彼女の頭を両手で支えてやりながら、ただひたすら見守ることになる。赤ん坊は産道につかえているようだ。助産師が内線電話をかけると、院長が分娩室に現れた。看護師も院長も、元気づける言葉を妻にかけ続ける。私は何を言っていいのか分からず、ただ妻の頭を支えていた。院長は妻のお腹に体重をかけるような形で押し、妻も力を込めるが、まだ生まれてこない。若干切開することになる。
10:55、ようやく生まれる。妻のお腹の上に乗せられた赤ん坊から、泣き声がする。妻も少し壊れたように泣き出した。安堵の気持ちが広がり、私も目が熱くなる。院長に促され、臍帯を切った。この産科では、希望すれば臍帯を切らせてもらえるのだ。臍帯は半透明で、中に血管が通っているのが見える。本当にこれを切っていいのか、切るとき赤ん坊を傷つけたりしないか、院長や看護師の反応を目で確認しながら、手術用の鋏に力を込める。臍帯はゴムホースのような固さだった。
2,724g。49.0cm。健康で生まれてきてくれたことがありがたかった。抱きかかえると、予想以上に軽く小さかった。一人目を育てた経験と、何とかなるという自信があるせいか、長男が生まれた時ほどの緊張や感動はない。私がこの子にしてあげられることを、改めて考え始めた。この子が成人するとき、私は66歳になっていることを思った。
2月7日(日)の晩に寝入ってしばらくした後、翌8日(月)午前1:30頃に妻に起こされた。周期はまだ長いが、本格的な陣痛が始まったようだとのこと。彼女はかかりつけの産科に電話をし、とりあえず診察を受けることになる。ばたばたと身支度を調えて、タクシーをつかまえ産科へ向かった。この日がちょうど予定日となっていた妻はそのまま入院することになった。陣痛が強くならないので、3時過ぎ頃、私は一度家に戻ることにする。寝ている長男を家に置いてきているためだ。
4:28に陣痛が強まってきたとのメールが妻から届く。熟睡している長男を起こして支度をさせ、再度タクシーで2人で産科へ向かった。家族が増える瞬間に長男を立ち会わせると、妻と予め決めておいたためだ。可能であれば私と長男は分娩室に入ってその瞬間を共有してほしいと、妻は希望していたのだ。妻の陣痛はまだ十分に強くならず、長時間かかるかもしれないと看護師に言われる。このため7時過ぎ、電車で再度家に帰る。途中、長男の小学校に電話をかけ、今日は休ませる旨を担任の先生に連絡した。
9:12に妻からメールが届いた。陣痛がかなりきつくなってきているらしい。長男を連れて電車で産科へ。ベッドの上の妻はかなり苦しいようで、背中から腰を何度もさすってやる。10時過ぎ、長男をトイレに連れて行って病室へ戻ると、妻は分娩室へ移されていた。
分娩室に入るため専用の薄い上着と帽子を身に付ける。長男は分娩室には入りたがらない。分娩室では二人の看護師と共に妻が格闘中だった。私は妻の頭側に立って彼女の頭を両手で支えてやりながら、ただひたすら見守ることになる。赤ん坊は産道につかえているようだ。助産師が内線電話をかけると、院長が分娩室に現れた。看護師も院長も、元気づける言葉を妻にかけ続ける。私は何を言っていいのか分からず、ただ妻の頭を支えていた。院長は妻のお腹に体重をかけるような形で押し、妻も力を込めるが、まだ生まれてこない。若干切開することになる。
10:55、ようやく生まれる。妻のお腹の上に乗せられた赤ん坊から、泣き声がする。妻も少し壊れたように泣き出した。安堵の気持ちが広がり、私も目が熱くなる。院長に促され、臍帯を切った。この産科では、希望すれば臍帯を切らせてもらえるのだ。臍帯は半透明で、中に血管が通っているのが見える。本当にこれを切っていいのか、切るとき赤ん坊を傷つけたりしないか、院長や看護師の反応を目で確認しながら、手術用の鋏に力を込める。臍帯はゴムホースのような固さだった。
2,724g。49.0cm。健康で生まれてきてくれたことがありがたかった。抱きかかえると、予想以上に軽く小さかった。一人目を育てた経験と、何とかなるという自信があるせいか、長男が生まれた時ほどの緊張や感動はない。私がこの子にしてあげられることを、改めて考え始めた。この子が成人するとき、私は66歳になっていることを思った。
2010年1月26日火曜日
スタッフを元気づけられるように
昨年末の忘年会で、同じテーブルになった年長の人が言葉をかけてくれた。
定例会議で君が主張していることや日頃実行しようとしていることは、間違っていない。必ず業績の向上につながっていく。今の努力を来年も続けるべきだ。
ふっと、気持ちが上向いてきた。自分は信頼されていて、今の自分に自信を持ってよいと確認でき、安堵感のようなものが湧く。この年長者は、他の会社から昨年移ってきた人で、前の会社では経営の責任者だったと聞いている。不安を抱えて孤立しかけているかもしれない私の状況が、よく解っていたのだろう。一年を振り返って次の年に向かおうとする節目に嬉しかった。
翻って、私は自分のスタッフを勇気づけることが全くできるようになっていないことに、改めて気が付く。コーチングについてもリーダーシップについても、本を読みかじってはみたものの、実際の行動に結びつけられない。会社の人間関係をギブ・アンド・テイクの短期的な取引と思ってしまいがちで、長期的に育成していく仲間だとはとらえられないのだ。
これも、【脱「でぶスモーカー」の仕事術】の一節だ。
小さな会社しか経験せず、スタッフの育成方法もコーチングも身につけてこなかった私は、なんといびつなことだろう。組織図上で私の部下になってしまった現在のスタッフたちを、今年こそは力づけていきたい。
定例会議で君が主張していることや日頃実行しようとしていることは、間違っていない。必ず業績の向上につながっていく。今の努力を来年も続けるべきだ。
ふっと、気持ちが上向いてきた。自分は信頼されていて、今の自分に自信を持ってよいと確認でき、安堵感のようなものが湧く。この年長者は、他の会社から昨年移ってきた人で、前の会社では経営の責任者だったと聞いている。不安を抱えて孤立しかけているかもしれない私の状況が、よく解っていたのだろう。一年を振り返って次の年に向かおうとする節目に嬉しかった。
翻って、私は自分のスタッフを勇気づけることが全くできるようになっていないことに、改めて気が付く。コーチングについてもリーダーシップについても、本を読みかじってはみたものの、実際の行動に結びつけられない。会社の人間関係をギブ・アンド・テイクの短期的な取引と思ってしまいがちで、長期的に育成していく仲間だとはとらえられないのだ。
マネジャーを育てることは、マネジメントについて議論することではなく(ましてリーダーシップなど議論すべきでない)、感情の自己制御と相互交流のスタイルをあれこれ経験し、試し、発達させるしかないプロセスに候補者を放り込むことである。
これも、【脱「でぶスモーカー」の仕事術】の一節だ。
小さな会社しか経験せず、スタッフの育成方法もコーチングも身につけてこなかった私は、なんといびつなことだろう。組織図上で私の部下になってしまった現在のスタッフたちを、今年こそは力づけていきたい。
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