2009年5月30日土曜日

行為の名詞化

例えば電車を待っている駅のホームで、目や耳にする言葉の表現に違和感を感じることがある。
「駆け込み乗車はお止めください。」
「電車遅れが発生しています。」
どうして...
「(乗車するとき)駆け込まないでください。」
「電車が遅れています。」
...ぢゃないんだろう。
動名詞(行為を名詞化したもの)+する
という形式が選ばれていて、
目的語+動詞
という形式は排除されているようだ。

動名詞には、その行為が一般的に持つ周辺の意味が付随するので、伝達されるイメージが自然と豊富になるからだと思えた。「登山する」と言うと、服や靴や帽子をそれらしく着け、リュックや各種の装備を持って、スポーツや趣味で行うイメージがする。これが「山に登る」だと、そうしたイメージは弱まり、山の高いところへ移動するという行為のみが主に想起される。

ただ、ここで伝わると期待されるイメージは、その時点で「一般的」なものになってしまうだろう。このため、メッセージ全体が喚起する意味の広がりや豊穣さは失われ、表現としては退屈になることもある気がする。また、このイメージの具体像は受け手に委ねられているので、送り手の意図が必ずしも伝わるとは限らないという意味で、正確ではない。マニュアルや規定、ビジネスライティングなどで使用するには、この動名詞の定義を明確にすることが必要だろう。

これは、古語の枕詞や序詞が使われた方向と似ているのかもしれない。「たらちねの母」が「母」より豊富なイメージを持つようにだ。

2009年5月17日日曜日

舌を噛む練習

人と話すとき、特に仕事の会議で議論するときに、同意できない意見に出くわす。自分の感情がコントロールできていないと最も感じるときだ。つい自分の「正しい」意見を押し通してしまう。相手の弱点を突いて論破してしまう。説得されたように見える相手は議論を終結させるが、共感も同意もしていない。

45歳になっても、分かってはいるのだが実行できない事柄の数は、一向に減らない。新しい考え方に出会うことは、だんだんと少なくなっているのだが。

カーネギーの「人を動かす」を読んだ。そう、頭では分かっているのだ。議論に勝つ唯一の方法は、議論を避けることだと。だが今の自分はまだ...
  • 発言すること、感情を吐露すること自体が目的になってしまっている。発散や開放に引きずられてしまうのだ。
  • 引き続いて起こるであろう事象を、その瞬間に予測できていない。自分が議論に勝つことと、自分の望む結果・状態を得ることが、結びつかない。
  • 工夫やアイデアが不足している。一瞬の感情の発露を抑えるための「舌を噛む」工夫だ。
とにかく、相手が存在することの価値を認めて表明しようと思う。「おもしろい意見ですね」、「私には考え付かなかった」と言い、相手を肯定するように質問し、否定的であることを気付かせないようにしていかねば。

人を説得する十二原則
  1. 議論を避ける
  2. 誤りを指摘しない
  3. 誤りを認める
  4. おだやかに話す
  5. 相手が“イエス”と答えられる問題を選ぶ
  6. 相手にしゃべらせる。
  7. 相手に思いつかせる。
  8. 人の身になる
  9. 相手の考えや希望に対して同情を持つ。
  10. 美しい心情に呼びかける
  11. 演出を考える
  12. 対抗意識を刺激する

忘れていたこと

自分がいつの間にか変わってしまっていることを実感する。
  • 子供の頃はテレビをたくさん見て(1日5時間以上は見ていた気がする)、漫画ばかり読んでいたのに、自分の息子がテレビばかり見ていると、もっと他のことをさせなければと感じる。
  • 高校生の頃、進学校へ通っていたことが自信になっていたくせに、学歴社会を批判したり、学校で勉強する意味なんかないと授業をさぼってゲームセンターに行ったりした。自分の息子が授業をさぼってゲームセンターに入り浸ったりしたら、自分はそれを認めてやれるだろうか。
  • 大学は2年生の途中から行かなくなり、結局中退してしまった。本当は、自分の能力が足りず、勉強に付いていくのが億劫になっただけなのに、中退を正当化する理由を探し回った。自分の息子が学校へ行くのは嫌だと本気で言ったら、自分はどうする?
五味太郎さんの「大人問題」という本を読んで、自分は昔と変わってしまったこと、作者はきちんと初源の自己を保存していると感じた。
そして、少し思い出したことがある。
  • 個人は本質的に自由であること。
  • 社会や共同性に先立って個人があり、その逆ではないこと。
  • 制度や規範は「とりあえず」のものであって、唯一絶対ではないこと。
もう少し。
  • 自分は、人に優しくする方法をまったく知らなかった。人からは優しくしてほしかったくせにだ。異性に好かれたいと切望していたが、こんな私に好意を寄せる人など全くいなかったのは、もっともだ。
ずいぶんと親に反抗していた。何が不満だったのだろう。
  • アマチュア無線の無線機を買ってもらえなかったこと。
  • 好き嫌いが多く、母親の料理が口に合わなかったこと。
  • 些細な言い間違いや親の知識不足。
  • 他の家庭に比べて、家が貧しいと思えたこと。でも、今思い起こすと、毎週の少年マガジンも、毎月の科学と学習も、プラモデルも、電子工作用の部品も、百科事典も、学習書も、不自由はなかった気がする。家が古い木造だったから?
今、息子を見て思うこと、息子と私との間にある葛藤と本質的に何も変わりはないことがわかる。

「すべてにおいて精神が疲労しきって」いる自分には、五味太郎さんの言葉は少し痛いが、こういう刺激は定期的に必要だと思えた。

2009年5月4日月曜日

また江ノ島へ

5月3日(日)は、また自転車で江ノ島へ行った。

自分の体力に合ったちょうど良い距離で、達成感のある目的地というと江ノ島になってしまう。気温23度で曇り、往路は向かい風が強かったが、前回に比べて楽に自転車が前へ進む。少しずつ体力が回復してきたのかもしれない。いつものようにさざえ島で休憩し、復路につく。前回江ノ島へ行ったとき疲れてしまった権太坂でも、それほど辛い感じはなかった。

体力が落ちてきたこと、風邪を引いても直りにくくなったこと、メニエール病の目眩がなくならないこと。自分の体の調子に耳を澄ませるようにして、体力や健康について考えることが最近多くなった。

この調子で走れるようなら、夏までには70kmくらいまで距離を伸ばしてみたい。距離を伸ばすことが健康であることの証で、その証を手に入れたいと感じているからだ。

2009年5月3日日曜日

仕事の空白

突発的に、職場で何をするべきか分からなくなった。道に迷って歩き回っているときのように、現在正しい方向へ進んでいるのか、何をするのが今一番正しいのか、突然自信がなくなる。

景気が後退しているからなのだろう、日々処理しなければいけない仕事の量が減ってきた。こうした現状をどのように解釈すればよいのか、どうすれば仕事の量が増えるのか、何をすれば競争環境の中で生き残れるのか、何を選択し何に集中すればよいのか。小さいとはいえチームのリーダーである立場としては、メンバーのみんなにはっきりと示したいと強く思う。

まず、焦点を合わせる広さがつかめない。これまで着手できなかった改善を進行させるべきなのだろうか。変化の時期だととらえてまったく新しい可能性を検討するべきなのだろうか。組織や業務手順の問題点に集中するべきなのか、顧客や競合の情報から何か機会を探し出すべきなのか。

これまでの自分の仕事が如何に、組織や他人からの要求や、周囲の都合に規定されていたのかを思い知ることになる。周囲から要求された仕事に忙しいときには、会社のビジョンの欠如や上司のリーダー能力の不足を心の底から憤っていたのに、自分自身がビジョンを策定し、リーダーシップを発揮できるエアポケットのような時間を得られた今になって、何をすべきかわからないとは情けない。

とりあえず、自分の最低限の職業倫理として、ビジョンを策定し取り組むべき具体的な課題を示すことから逃げないようにしよう。誤るかもしれないが、判断を先延ばしにし状況が変化するまで待つわけにはいかない。他にやることがないのだったら、やっても損にはならないしな.....